震災遺構 浪江町立請戸小学校 / 主山しのぶ

初めてツアーに参加させていただきました。

ツアーの存在は以前から知っていたのですが、濃すぎる中身、濃すぎるメンバーの前にたじろいでいました。何より現実の重みを受け止める自信がなく、レポートを書いたり、感想を述べたりというノルマもあると聞いていたので、言葉にならないものを言葉にしなくてはならない作業も重く感じました。

しかし、今回、原発被災者に寄り添い続ける「悶え神」のような吉田千亜さんが参加されるという情報が入り、もう逃げていてはいけない気がしました。事前の勉強はとくにせず、今の福島を五感で感じてこよう、と思いました。現地へ行くことの効果は、その後に視聴する本、映画、講演会などが自分事に近づくことだ、と思っています。学びは感じたあとしようと思いました。

私には「震災遺構 浪江町立請戸小学校」をレポートせよ、とのことなので、前半はそちらを。後半は帰宅後に学んだことについて書かせていただきます。(それこそがツアー参加の効能なので。)

当時、請戸地区には15メートルに達する津波が来ましたが、子どもたち、教員たち全員命が助かり、小学校はその後、唯一の「震災遺構」となります。東京電力福島第一原子力発電所から北へ5.7キロの位置にあり、校舎二階からはその排気塔が見えます。二階の床上10センチまで水が来たという建物は、体育館の床は大きくたわみ、建物1階の教室などは廃墟。階段を上がると、2階は今も子どもたちが通っているかのようなきれいなままで、まるで別世界でした。震災前、震災後の町を象徴するような建物でした。入るとすぐに漁港のある請戸地区に伝わる祭りや季節の行事での、住民たちの生き生きした様子がDVDで流れていました。地区の文化を残したい、地元の住民が帰ってきたときに拠り所となる建物に、という思いも込められている請戸小は、また、日頃から教師と児童、学年を超えた児童同士、地元住民と学校関係者の民主的コミュニケーションがとれていたことが、いざという時全員の命が助かるという結果につながったことを教訓として後世に伝えたいという住民たちの強い思いが込められていました。

私はどうしても「生きる~大川小学校津波裁判を闘った人たち~(寺田和弘監督)」を想起せずにはいられませんでした。

何が生死を分けたのか?

亡くなった児童生徒がいる学校へ配慮し、全員生きのびた海辺の学校の関係者は、声高にそのこと言えないのだと聞きました。

請戸地区はまた東京電力福島第一原子力発電所が近いことで放射線の影響が懸念され、不明者の捜索が遅れました。本来生きて帰れた人たちに救いの手を差し伸べられなかった口惜しさを、故馬場元町長が「日本と原発」で涙ながらに語ったシーンが印象的でした。

悲しみをまとった地域の中で全員生き延びた奇跡のような請戸小震災遺構。事故当時のままを遺す、というコンセプトですが、海風にさらされ、すでに風化が進んでいました。どのような形で当時のままを遺すのか?難しい課題だと思いました。

帰宅後、原発事故関連の本を読み、映画を見に行きました。

まず、吉田千亜さんの「原発事故、ひとりひとりの記憶~3.11から今に続くこと」(岩波ジュニア新書)を一章ずつ丹念に読みました。10章からなるこの本は、その名の通り、受け止めきれない現実を生きるさまざまな立場の原発被災者の、埋もれてしまいそうなひとりひとりの尊い記録を記したものです。ツアーで現地ガイドを務めてくださった鵜沼さんが最初に登場するこの本を、私は泣きながら読みました。一晩に一章ずつ。とても一機に読めるものではありません。

次に読んだのは「原発に子孫の命は売れない~原発ができなかったフクシマ浪江町~」(恩田勝恒著 七ツ森書館)です。この本は、以前ギャラリーかぐやでお話を聴いた浪江町「希望の牧場」の吉沢さんが紹介してくれたものですが、本棚で埃をかぶっていました。

今回のツアーで最も衝撃的だったイノベーションコースト構想地区の一つである棚塩地区。1967年から2013年まで、ここは東北電力の原発計画があった場所だったのです。(浪江・小高原子力発電所建設計画)地権者であり農民である桝倉隆氏を中心とした棚塩地区の住民たちが粘り強い反対運動を続け、東北電力に計画を断念させた、この本にはその記録が詳細に書かれています。棚塩は豊かな水田が広がり、農業で食べていかれる土地だったのです。子孫のために先祖から受け継いだ田んぼを守り抜いた桝倉さんが生きていたら、津波で流された田んぼのあとに、「国際研究機関」と称した軍事転用可能な巨大施設が作られている現在の棚塩をどう思うだろうかと想像し、胸がいたみました。

映画は「生きて、生きて、生きろ」(島田陽磨監督)を観ました。福島では年月がたってから発症するPTSDが多発。心の病、若者の自殺、児童虐待。蟻塚亮二医師ら、メンタルケアに従事する人たちと、心に深い傷をおった3人の被災者の記録です。

息子が自殺してしまい、アルコール依存症になってしまった男性。最後のシーンで自らの置かれた立場を客観的に語って、生活を立て直していくシーンが忘れられません。

大切な人を失い、土地を奪われ、生業を失う…どこまでも続く暗闇を生き続けなくてはならない時、何が自分を救うのか。

地震と津波と原発事故の三重苦にみまわれた福島の人々の辛苦の記録に触れることは、自分にとっては、なぜ私は生きるのか?といった根源に立ち返ることにもなります。

結果、沼に落ち、はい出ることができなくなることも多々ありますが、沼を抜けると、記録された「フクシマ文学」が、いずれも人間への賛歌のように思えてきます。

最後に感謝の意を。ツアースタッフの入念な事前準備と当日の采配、事後の仕事は、ただ文句をたらたら言って、参加をためらい続けて、やっと鉄のように重たい腰を上げて参加した私にとっては、すごすぎる人たちです。心よりの感謝を申し上げます。写真と動画を撮影してくださった篠崎さんと井上さんは、編集作業におわれていることと思います。一つのことしか頭に入らない私にとって、見損ねた景色や言葉、事実を動画や写真で振り返ることができるのは、大変ありがたいです。報告会が楽しみです。

そのほか、伝言館館長の安斎郁郎先生のことや、俺たちの伝承館のことなど、まだ書きたいことはありますが、ダラダラしてしまいそうなのでここでやめておきます。

最後に。もしツアーに参加をためらっている人がいらしたら…私が言うのもなんですが、ぜひ一度ご参加ください!

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