2019 福島第一原発20㎞圏内ツアー報告資料

2019年福島第一原発20キロ圏内ツアー報告会

福島6月の浜通りを行く原発事故から8年

第4回原発20㎞圏内ツアー報告

今回は、ツアー参加者に各所の報告書を書いていただきました。ご協力いただいたみなさん、ありがとうございます。

東電廃炉資料館見学レポート (白田真希

旧エネルギー館。福島第二原発のPRを目的としてつくられたそれを、「福島原子力事故の事実と廃炉事業の現状等をご確認いただける場」を目的としたものにリニューアルしたものだ。

「反省と教訓」を前面に掲げ、また団体での入館であったからか案内をしてくれた職員も「謝罪」から入る。「シアター」では映像により地震発生から津波による電源喪失、そして原発事故とその後の「東電なりの」対応が「一応」憲章総括されており、その中で「おごりと過信」という言葉が繰り返される。パネル展示などでも「反省と教訓」「おごりと過信」、そして「謙虚な姿勢で向き合わなかった」……一見、真摯に反省しているように見える。

しかしやはり、細かく見ていくと東電の本音はチラチラと見え隠れする。地震・津波について、「天災と片づけてはならず、人智を尽くした備えをすべきであったという一方で、予想が困難であるということもしっかり言っている。津波が「想定外」ではなく警告も発せられていたのに、それを東電が無視していたことは既に知られていることだ。それに、事故によって多くの人に避難を強いることになったことについて「ご迷惑とご心配をおかけしました」と言った。「迷惑」と「心配」?そんなレベルじゃないだろう。原発関連の死者や自殺者を多く出したことをどう考えているのか。事故により亡くなった方がいるという一言も、その謝罪も全くなかった。

東電は原発の仕組みを解説し、そして事故対策は「防ぐ」「止める」「冷やす」が重要だったと総括し、「防ぐ」については、“想定”以上の津波に襲われたため、海水を防ぐことができなかった、「止める」ことについては地震のあと、設計通り非常停止することができた、しかし津波に襲われたため電源喪失をし「冷やす」ことができなかった、とした。あくまでも、予想を超える津波のせいだ。「天災と片づけてはならない」と言いつつ、やっぱり津波のせいにしている。

それから見過ごせなかったのが、事故対応の過ちとして情報と判断を所長一人に集中させすぎたとしていた。そういう体制にあったのだとしたら確かに組織の問題だろう。しかし、聞きようによっては亡くなった吉田所長一人に責任を負わせているようにもとれる。まさに「死人に口なし」だ。東電という組織の冷酷非情さを感じた。

展示は恐ろしく“充実”している。映像、パネルだけでなく、模型もふんだんにある。「廃炉資料館」ではあるのだが、廃炉についてその方法や技術などの説明にかなり費やしている。率直に思ったのが、一体これに幾らかけたのだろうかということだ。こんなにきちんとやっています、というPRでしかないように思える。

「反省と教訓」という映像で東電の反省と“決意”が述べられている。事故を起こしたのは「安全」「対話」「技術」が不足していて、負の連鎖に陥っていることに気づかなかったとし、これを断ち切り、「安全を最優先する組織に生まれ変わる」と決意表明している。しかしその直後に「原子力事故を決して忘れることなく、安全レベルを高め、比類なき安全を創造しつづける原子力事業者になることをここに決意いたします」と結んでいる。これにはツアー参加者からどよめきが起きた。真摯に反省していると言いながら、しかし原発はやめないのだと“高らかに”宣言しているのだ。

最後に案内してくれた職員にツアー参加者から質問と非難が飛んだ。一介の職員が会社の方針と違ったことを言えるはずもなく、彼を責めても仕方ないとわかりつつ、しかしやはり言わずにはいられないというところだろう。原発をやめないのかという声に、弊社の判断ではできない、原発事業は国の方針だと繰り返すばかり。ならばと飛んだ「では、政府が原発をやめると言えばやめるのか」との質問には、「政府がやめると決定すればやめる」と言い切った。それはそうだろう。だからまず、私たちがすべきことは原発推進をしない、原発をやめる議員を選べ政権交代させることだ。

とはいえ、東電の責任の追及はやめてはならない。この廃炉資料館では真摯に反省している“ふり”をしつつ、その一方では東電刑事訴訟をはじめとする各裁判でも、ADRの和解案拒否でも、東電は責任逃れの姿勢を貫いている。矛盾しているというより、そちらのほが東電の本音であることは言うまでもなかろう。

ダニーさんが最後に言った「今までウソをついてきました。これからはもっとウソをつきます、ということなんですね」。まさにそのとおりだ。廃炉資料館も大事なことは隠している。微妙に責任逃れをしている。私たちは騙されてはならない。

請戸海岸で見たものは…(すずきひろこ)

2015年原発とめよう秩父人の福島ツアー第2回に参加して、初めて浪江町の請戸海岸を訪ねました。震災から4年経っていたその時点でも、まだたくさんの家や家の礎石、折れ曲がったガードレールなど津波の猛威を示す爪痕が痛々しく残っていました。家の中はすっかり流されて空っぽなのに、2階の窓に揺れているカーテン。庭であったであろうと思われる場所にけなげに咲いている真紅のバラの花。そこで営まれていたたくさんの家族のひとつひとつの暮しに思いを馳せました。

2017年、2度目に訪れた請戸海岸にはもう数件の家を残すのみで、ガレキ焼却のための仮設の焼却炉ができていました。

2019年、この6月3度めに訪れた請戸海岸は、すっかり整地されて、まるで工業団地を作るために埋め立てて造成された広大な土地のように見えました。そして、ここに到達した津波高よりずっと低い8メートルの高さしかない堤防が延々と続いていました。津波の爪痕とともに、そこに生きていた人々の暮しの記憶も、原発事故があったことも消し去られてゆくようで、複雑な気持ちになりました。除染され白い砂や砂利を敷きつめられてきれいになってゆく町の風景とも重なり、消してはいけない記憶まで消してしまうように感じられたのです。

初めて見た請戸浜の姿、避難解除になる前の荒れ果てた町々の姿を脳裏に刻んでおかねば、との思いを新たにした旅となりました。

請戸の浜で感じた事 (平賀千草)

請戸の浜は、何もない荒野のような風景が広がっていました。それは4年前とあまり変わっていず、人っ子一人いない草ぼうぼうの中、道路だけがきれいに整備されていました。

請戸の浜で一番、目を引いたのは、延々と続く防潮堤でした。幅10m位、高さ6m位の、台形の防潮堤がどこまでも続いていました。不自然な景色でした。

切通のように堤防の切れた所から、海側に入ると、何十mか先に海がありました。陸側にいると、防潮堤のせいで、そこにあるはずの海は全くみえません。

陸と海を切り離す防潮堤に私は息苦しさと苛立ちを感じました。たしかに、6m以下の津波に対しては有効かもしれません。しかし、それを越える津波が来たら(東日本大震災の津波は15mでした)なんの意味もない防潮堤に、どれだけの税金が使われたのでしょう。

放射能の被害から逃れて、避難している住民への住宅支援は打ち切り。こんな工事に膨大な予算をつける。この国の行政が誰のための政治をしているのか、防潮堤は如実に表していると思いました。

助けを必要としている人間を助けず、ゼネコンを儲けさせる工事に大金(税金)を使う。そんな現実、政府に怒りを感じました。

しかし!そんな愚劣な政府を選んでいるのは国民自身。あ~~あ。私達の努力が足りないのだろうか。もうすぐある参議院選挙でアベ政治にNO!を突き付ける国民を一人でも増やすよう、ほんのちょっとの間だけど、できることをしたいと思う。

原発止めよう秩父人主催、第4回福島20㌔圏内ツアー 大曽根正澄

1日め 14:00冨岡町~大熊町町内をバスで見学

東京電力旧PR館、現廃炉資料館を見終え、大きなギモンと腹立たしさを抱えて館を出るとバスにはすでに渡辺好さんが笑顔で待っていられた。

渡辺好さん。地元冨岡町で生まれ、原発の安全性を信じていたと自己紹介される方で、事故以後は語り部のボランテイアをされている。

冨岡町に原発ができてから、関連工業、運転者などが町内に住み、広野火力発電所と併せ、町の人口は16,000人に倍化したとのこと。

2011年3月11日は、地震による死者は0人、津波は21,1㍍に達し、死者は24名、未だ不明者は6名。助かったのに、その後の原発爆発による避難関連死者は418名にもなった。津波対策の執行を遅らせ続け、大勢の死を招いた東電社長ら3名の責任はとらせなければと思う。

昨年平成29年4月、富岡町全町避難解除されたが、町の15%は未だ困難地区、町民の30%4,800人は町に戻れないでいる。今年5月、1010人もが戻ってきたと言われたが、実態は復興作業員と会社であるとのこと。

🚌 ~冨岡駅へ

新築の駅前にバスを止め話をうかがう。車窓から眺めても家の屋根が見えるだけだが、津波襲来後はずっと浜が見えていたという。6,300世帯中、2,500世帯が家屋の解体を申請。4,800人が住んでいた夜の森地区は除染が済んでから家屋の解体申請が出されるという。町の家屋全体の3分の2が解体の見通し。

小学校2校、中学校2校で1,500人いた児童・生徒は、8年後のいま、小学生14人、中学生3人。

避難指示が出て、川内村へ向かった町民が3,000人、さらに郡山へと8,000人が移動することになった           と。

~ 🚌冨岡高校へ

高校の横でバスを停める。平成18年、県アカデミー構想に基づき国際スポーツ科ができ、第一期生バトミントンの百田選手ら有力選手を輩出、しかし平成30年休校に追い込まれ、双葉未来高校に統合化。広い人工芝グランドの緑、8年放置され古ぼけてしまったように見える鉄筋校舎。グランドの向こう遠くの立派な体育館がむなしい。廃校ではなく「休校」と言うコトバもむなしい。

🚌~冨岡町メイン通りへ

通りの家屋もひっそり古ぼけ、更地がやたら多い。バスの窓を右に左に大きな更地を指さしてはここには〇〇が建っていた、ここは〇〇があった、と渡辺さん。自分の町を失った寂しさの顔と声を目の前にして辛くなった。

🚌~メイン通りを抜けた冨岡川の橋の上より

上流側100㍍くらい先の段差が見える位置まで津波が押し寄せたという。その位置の近く、指さす所が渡辺さんが母と住んでいた自宅。暮らし続けるつもりで修理したが、戻れず丸7年経ちとても住めなくなったと。

🚌~ 夜の森入口へ

バス路の両側に広がる荒地はすべて田んぼだった。殺処分に抗い宮崎牛15頭を飼い続ける酪農家がいると。移動を禁止されている。

夜の森地区は、バス通りに繋がる小道はすべてバリケードで通行止め。2500本の桜の通りの端を横切り止まる。毎年開催されてきた桜祭は昨年再開されたがバス9台で通り抜け。バス通りの沿い屋敷が続くが無人、だれもいない。店も開いていない。通りの奥数百㍍先はバリケード通行止め。緑がやや濃くなり始めた桜の葉が、バスで横切った通りを暗く覆っているように見えたのは気のせいだったか。人一人姿がなく、美しいとは見えなかった。

広大な荒地は元は畑だったのか? 広大な太陽光パネルはよく知られているとのことだが、どういう経緯でなったものか私は知らなかった。

🚌~ 大熊町役場へ

大熊町役場周辺はまるで新開拓地のよう。役場の立派な建物、近くにいくつか新築が建つが、住人は専ら原発解体工事関係。遥か彼方まで見通せる更地と目線を上げれば広い青空。除染などまったく手の付いていない放置されたままの広大な土地はどうする、どうなるのか?

語り部ガイドを終えた渡辺さんが最後に語られたコトバがまだ残っている。

「8年経ち、語り部たちはだんだん元気を失っていきました。私はがんばらなければと思います。」 渡辺さん、ありがとうございました。

人一人の命、まして数百数千人の命が奪われ、家が、土地が、家族のくらしが、町がふるさとが丸ごと奪われ、思い出が、未来までが奪われた現実。

奪ってはならぬものを奪ったのは誰か?科学的に予期され、対策を意図的に遅らせ続け招いた結果に、国や東電の社長には必ず責任をとらせることが重要。戦争を始めた犯罪政治家、ミナマタ憂苦水銀中毒を起こした犯罪企業と同じだ。あいまいにしたまま見逃せばまた被害を起こす。けた違いの被害を起こすかもしれない。

「いのち」への配慮とコミュニティ(17) (空閑 厚樹)

6月8日、9日に福島県を訪ねるツアーに参加しました。このツアーは「原発とめよう秩父人の会」が、2013年から隔年で実施しており、今回で4回目になります。以前、「地に平和」の勉強会で講演してくださったダニー・ネフセタイさんもこの会のメンバーで、私はダニーさんからこのツアーのことを教えてもらい、今回参加しました。

大型観光バスで埼玉県を出発したのは朝7時30分、最初の訪問地であるJヴィレッジに到着したのは11時30分前後でした。福島に向かう車中、24名の参加者が自己紹介しました。参加者の多くは「原発とめよう秩父人の会」メンバーでしたが、参加動機や背景は様々でした。このツアーの直前の検査でがんが見つかり手術を延期して参加したという方や開催日前日に誘われて急遽参加を決めたという方、また随時放射線線量を報告してくださったのは秩父で塾講師をされている方でした。さらにパレスチナに30年近く通ってドキュメンタリー映画を作成しており、3年前に飯館村の映画を撮ったという映画監督、古居みずえさんも参加していました。私の参加動機は、震災後の福島のことを知りたい、そしてどのように関わっていくことができるのか考えたいという二点でした。

私は大学で教員をしています。所属はコミュニティ福祉学部です。2011年東日本大震災の後、震災後の復興支援に関わることは本学部の研究教育実践と直結するということで、学部で「東日本大震災復興支援推進室」を立ち上げました。私もこれまで何度か学生と一緒に宮城県気仙沼大島、南三陸町、岩手県陸前高田市に行き、支援活動に参加しました。一方で福島県での活動は私が復興支援推進室メンバーだった期間はありませんでした(その後、2014年10月からいわき市でのプログラムが始まります)。しかし、福島のことを皆で考える機会をもつことは不可欠であると私は考えました。ちょうどその時、飯館村から自主避難した方の話を聞く機会がありました。事故直後の緊迫した様子や錯綜する情報に翻弄されながらも独自に収集した情報とこれまでの経験をふまえて決断した自主避難の話は、日本社会の抱える課題の縮図のように思えました。そして、福島からの自主避難当事者の話を聞くことは私たちが自分の問題として福島のことを捉える機会にもなると考えました。そこで、この方をお呼びして講演会と勉強会を開催することを復興支援推進室の責任者に提案しました。 

しかし、その提案は却下されました。自主避難できる状況にある人はいいかもしれないが、できない人もいる。その人たちは今も福島で生活をしている。避難したくてもできない人を支えることを優先すべきではないかというのがその理由でした。私のゼミ生で福島県出身の学生がいたこともあり、私の提案が却下された理由は理解できました。しかし、原発事故後の状態が小康状態を保っているとはいえ最終的な安定には至っておらず、またこの事故の原因となった体制、考え方、人員の見直しもないままに、福島で暮らす人のことだけを考えた支援が長期的にみて福島の復興の支援になるのかという疑問も残りました。結局復興支援推進室主催の企画は実施しませんでしたが、私の授業にお呼びして講演していただきました。自主避難当事者のお話を直接聞くことで、学生も私も多くのこと学び考えることができました。そして、その時以来、福島県、特にまだ原発事故の影響を受けている地区の現状を見て考えたいと思っていました。

広野町と楢葉町の境界にあるJヴィレッジはサッカーのトレーニングセンターで、福島第一原子力発電所から20キロに位置します。原発事故後は事故対応拠点として使われていましたが、昨年夏からトレーニングセンターとしての利用も部分的に再開しました。私たちが訪問した時も、雨のコートでの練習風景を見ることができました。この施設は、広野にある火力発電所5,6号機、福島第一原発7,8号機建設の「お礼」として1兆円をかけて建設されたものだ、との説明をしてくれたのは、かつて原発の作業員でもあり、事故当時浪江町に住んでいた今野さんです。今回のツアーでは、今野さんの詳細で、時に鋭いブラックジョークも交えた解説をバス車中で聞くことができました。

Jヴィレッジで昼食をとった後、向かったのは富岡町にある東京電力廃炉資料館です。その建物は、エジソン、キューリー、アインシュタインの生家をつなぎ合わせたデザインでした。この3名は人類の英知を象徴しており、原子力発電もこれらの偉大な先人たちのもたらした成果であることを表している、とのことでした。そもそもこの建物は原子力発電の安全性と有効性をPRする「エネルギー館」として使われていました。外装はそのままで、原発事故後「廃炉資料館」として昨年7月に開館しました。「廃炉資料館」館内における展示方法は、最新の映像音響技術を駆使したものであり、潤沢な予算をもってつくられたことが想像できました。それだけに、その予算の一部を、外装を変えることに充てなかったのはなぜだろうかと疑問に思いました。

私たちは、自動音声と映像による説明と担当者の口頭による補足説明で順を追って展示をみました。それらの説明では、東京電力の責任を繰り返し厳しく指弾していました。事故の原因は巨大津波ではあったものの十分な対策をしていれば事故がここまで深刻な事態になることは防ぐことができた。東京電力の驕りと過信によって大惨事を招いてしまった。深く反省している、云々。そして、最後の展示パネルの前で自動音声解説のスイッチを入れる前に担当者は、「ここの説明は重要です」と言いました。そして始まった説明内容は、それまでの反省の弁とほぼ同じでした。ただ、最後が異なっていました。最後に流れてきたのは以下のメッセージです。

私たちは人知の限りを尽くした事前の備えによって防ぐべき事故を防ぐことができませんでした。この事実に正面から向き合い私たち東京電力は真に反省いたします。その上で原子力事故を決して忘れることなく、昨日より今日、今日よりも明日の安全レベルを高め、比類なき安全を創造し続ける原子力事業者になることを、ここに決意いたします。

この「決意」、そしてこのパネルを最後に置いていることから、なぜ外装を変えなかったのか理解できた気がしました。

埼玉県を出発した時、屋外で0.03マイクロシーベルトだった線量は、第一原子力発電所の位置する大熊町ではバス内で3.7を示しました。今回、福島を訪問するにあたり放射線量について調べてみると次のように説明されていました(朝日新聞)。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、自然放射線や医療による被曝(ひばく)を除いた平常時の一般住民の被曝限度を年間1ミリシーベルトとしている。・・・また、空間線量が毎時0.23マイクロシーベルトで、1日の8時間を屋外、16時間を木造家屋内で過ごした人の追加被曝が年間1ミリに相当すると推計。0.23マイクロ以上の地域の除染費用を東電に負担させており、多くの自治体が除染の目安としている。

0.23マイクロシーベルトが除染の対象となるということは、3.7マイクロシーベルトはかなり高い値ということになります。しかし、この値を計測した大熊町の一部は避難指示が解除されていて新築の町役場と復興住宅、そして東電の社宅が見えました。ここで、また今野さんの鋭い解説が入ります。新築の大熊町役場と町営住宅の建設に35億円かかっている。町民のごく一部、3パーセント前後しか帰ってきていないにも関わらず、である。また、ここにある東電社員の社宅を地域の人は「盗電ヒルズ」と呼んでいる。夜でもここ一帯は煌々と電気で照らされているから。また、窓の外に時々目にする原発事故で出た除染土を詰めたフレキシブルコンテナ(フレコン)バックについては、南相馬市小高区を走る常磐道の路盤にして埋めるという計画があったが反対運動に合って凍結状態になっているという説明もありました。

今野さんは車窓から見える風景の要所々々で、簡潔に、間髪を入れずに説明を加えます。そして説明の最後では口癖のように、「見てください、これが美しい日本の風景です」と加えました。「美しい日本」とは、現在日本社会の運営において最も重い責任を担っているはずの人物が好んで用いる表現です。

高い放射線量を計器が示しているにも関わらず帰還を促し、真新しい住宅にまばらな入居者しかおらず町には人気がないにも関わらず復興は順調に進んでいると内外に発信し、黒のフレコンバックを不自然な緑色のシーツで覆っている風景が依然として残っているにも関わらず、これを「美しい」と表現するには何が必要でしょうか。

それは、考えることをやめること、だと思います。今回の福島の旅にさそってくれたダニーさんはその著書の最後で次のように書いています。「私たちは危機的状況に陥った時、自分一人で論理的に考えるしかないのです」(『国のために死ぬのはすばらしい?』)。そして、ダニーさんが地に平和の講演会で強く推薦していたフランク・パブロフとヴィンセント・ギャロの絵本、『茶色の朝』には次のような高橋哲哉氏のメッセージが寄せられています。「[社会に危機的状況の兆候が表れた時]それらに驚きや疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらをやり過ごしてしまうことがある。…やり過ごしてしまうとは、驚きや疑問や違和感をみずから封印し、それ以上考えないようにすること、つまり思考を停止してしまうことにほかなりません」。同様のことを、やはりダニーさんから紹介された自主避難者の森松明希子さんもその著書の中で次のように書いています。これは20年後の彼女の子どもたちへの手紙の一節です。「思慮深く自分の頭で考え、その時の状況を冷静に把握した上で、自分の本当に信じるものに従って、それが「正しい」と判断したのなら、それがきっとその状況の中では最善なのだと思います。決めたら迷わず、信念を持って進んでください」(『母子避難、心の軌跡』)。

私たちの日常生活は、「考えることをやめること」が常態化する方向に常に引っ張られています。いそがしい毎日、気晴らしとしての娯楽、そしてオリンピック。その結果、「廃炉資料館」が「エネルギー館」と同じ外装であっても、「廃炉資料館」の展示の結論が「比類なき安全を創造し続ける原子力事業者になること」の決意表明であっても、電気は余っているにも関わらず原発の再稼働を政府が決定しても、今の日本では、暴動がおこるようなことはありません。

このような現状に抗う最も有効な方法は「考えることをやめない」ための場と機会を意識的につくっていくことだと思います。「地に平和」の勉強会で度々指摘されるように、それは現状を批判的に分析し、考え続けるための仲間づくりです。そして、このツアーを企画した「原発とめよう秩父人の会」もそのような仲間づくりを展開している会であると思いました。

『シンビオーシス』89号 2019年6月30日発行 NGO「地に平和」11~14頁

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原発とめよう秩父人

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